森監督2年めのシーズン、チーム打率リーグ最下位ながらも、圧倒的な投手力で、3年連続リーグ優勝&2年連続日本一を達成。

完投率50.76%。
日本プロ野球の完投率を少し調べてみたところ、昭和時代でも約34%、投手分業制が完全に確立した平成時代には約12%と下がり、令和時代の2019年に至っては、ライオンズ・ホークスともにわずか3試合(143試合制)にまで減っています。
この年の「西武ライオンズ」の完投数は66試合、年間130試合時代ですので率に直すとなんと50.76%、とんでもない数字でした。この年の投手陣は、工藤・東尾・郭泰源の3本柱が圧倒的でした。抑えは渡辺久信。
登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝 | 負 | セーブ | 防御率 | 勝率 | |
工藤 公康 | 27 | 26 | 23 | 2 | 15 | 4 | 0 | 2.41 | .789 |
東尾 修 | 28 | 27 | 17 | 3 | 15 | 9 | 0 | 2.59 | .625 |
郭 泰源 | 22 | 21 | 11 | 2 | 13 | 4 | 0 | 3.02 | .765 |
小野 和幸 | 23 | 20 | 4 | 2 | 4 | 11 | 0 | 3.86 | .267 |
渡辺 久信 | 30 | 9 | 5 | 1 | 5 | 3 | 8 | 3.07 | .625 |
横田 久則 | 18 | 8 | 4 | 1 | 5 | 2 | 0 | 1.64 | .714 |
松沼 博久 | 15 | 14 | 2 | 0 | 8 | 5 | 0 | 3.82 | .615 |
守備位置、背番号の変更。
この年は、守備位置と背番号に大きな変更がありました。
3年目の「田辺徳雄(背番号51→6)」がショートに入ったために、ショートの「石毛宏典」がサード、サードの「秋山幸二(24→1)」がセンターに移動、辻発彦が故障のためにセカンドには「笘篠誠治(40→4)」が定着。
1987年の主なスタメン。
打線はリーグ最低打率と低迷する中、「秋山幸二」が初の本塁打王のタイトルを獲得、全試合出場は、秋山・石毛・清原の3人。故障の「辻発彦」も秋には復帰し日本シリーズで活躍します。
守備 | 備考 | ||
1 | 三 | 石毛 宏典 | ベストナイン・ゴールデングラブ |
2 | 指 | 金森 永時 | |
3 | 中 | 秋山 幸二 | 本塁打王・ベストナイン・ゴールデングラブ |
4 | 一 | 清原 和博 | (2年め)130試合出場・29本 |
5 | 右 | ブコビッチ | |
6 | 左 | 安部 理 | |
7 | 捕 | 伊東 勤 | ベストナイン・ゴールデングラブ |
8 | 遊 | 田辺 徳雄 | |
9 | 二 | 笘篠 誠治 | |
投 | 工藤 公康 | 最優秀防御率・最高勝率・ベストナイン | |
投 | 東尾 修 | MVP・ゴールデングラブ |
清原、涙の日本シリーズ。試合中に号泣!
1987年の日本シリーズは「読売」との対戦、4勝2敗の圧勝。このシリーズで目立ったのは、①西武の走塁力、クロマティの緩慢守備の間にホームインする姿は何度も放送されています。試合前からの相手チームの研究、コーチと選手の綿密な打ち合わせなどが評価されていました。②シーズンに引き続き工藤公康の2完投勝ち、シリーズMVPに選出されます。③清原VS桑田の因縁の対決、最終戦のイニング中に流した涙が印象的でした。後楽園球場最後の日本シリーズです。

1987年の個人タイトル&表彰選手
最優秀選手 | 東尾 修 | 西武 | |
新人王 | 阿波野秀幸 | 近鉄 | |
首位打者 | 新井 宏昌 | 近鉄 | .366 |
本塁打王 | 秋山 幸二 | 西武 | 43本 |
打点王 | ブーマー・ウエルズ | 阪急 | 119点 |
盗塁王 | 大石 第二朗 | 近鉄 | 41 |
〃 | 西村 徳文 | ロッテ | 41 |
最高出塁率 | 門田 博光 | 南海 | .428 |
最優秀防御率 | 工藤 公康 | 西武 | 2.41 |
最多勝利 | 山沖 之彦 | 阪急 | 19勝 |
最多奪三振 | 阿波野 秀幸 | 近鉄 | 201 |
最高勝率 | 工藤 公康 | 西武 | .789 |
最優秀救援 | 牛島 和彦 | ロッテ | 26sp |
東尾修、麻雀賭博で書類送検。
このシーズンも活躍し、MVPに選出された「東尾修」、日本一になった契約更改時に1億円からアップの1億2500万円を保留し更なるアップを目指したものの、その後に反社会勢力の人たちとの麻雀賭博が発覚し、書類送検に。保留中の契約は、7,500万円に減額され更改、さらに球団から半年の出場停止、罰金2,500万円を言い渡されました。この件のためか調子を落とし、翌年限りで引退することに。その後、1995年からチームの監督に就任していますので最悪の事態は避けられたようです。今の時代ならもっと厳しい処分になっていたのではないでしょうか?1986年には近鉄デービスに殴られました。

それではまた更新します。