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1980年代「黄金のミドル(中量級)」の周辺⑤「ニカラグアの貴公子、アレクシス・アルゲリョ」後編。

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1980年代のボクシングは、ヘビー級ではなく、中量級にスーパースターが集中し、【黄金のミドル】と呼ばれる最盛時代、中でも「ハグラー・デュラン・レナード・ハーンズ」の4人は「ビッグ4」と呼ばれる超スーパースターでした。今回の特集は、この「ビッグ4」ではなくその周辺について探っております。
1980年代【黄金のミドル(中量級)】の周辺⓪

こちらはアルゲリョ後編です。前編はこちらから。

史上6人めの3階級制覇(WBC世界ライト級)

WBC世界ジュニアライト級タイトルを8度防衛後に返上。またも減量苦のためでした。返上後に1980年8月・11月、1981年2月にノンタイトル3戦3勝後、
1981年6月20日、WBC世界ライト級チャンピオンの「ジム・ワット」に挑戦、15R判定で3つめのタイトルを獲得。5月のベニテスに続く6人目の「3階級制覇」の達成です。
ワットは他の挑戦者を相手に防衛回数を積み上げたかったのでしょうが、この試合はWBCからの命令(指名試合?)。ファイトマネーは(当時)英国プロボクシング史上最高額、75万ドル、ちなみに挑戦者アルゲリョのファイトマネーは28万ドルだったようです。
試合終了後には、統一戦や4階級めの挑戦が噂されます。(相手はWBCのソウル・マンビー)ジム・ワットは、この試合を最後に引退。

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1981.10.3、VS レイ・マンシーニ(アメリカ)14RTKO、防衛①
1981.11.21、VS ロベルト・エリソンド(アメリカ)7RKO、防衛②
1982.2.13、VS ジェームズ・グシューム(アメリカ)6RTKO、防衛③
1982.5.22、VS アンディ・ガニガン(アメリカ)5RKO、防衛④ のちに返上。
ライト級での防衛戦はすべてKO。
この頃には「黄金のミドル・ビッグ4」が出揃い、スーパースター化し、ボクシングファンが熱狂していました。

返上後、1982.7.31 ノンタイトル戦、2RKO勝ち。

1982年11月、4階級制覇に向け、「アーロン・プライヤー」に挑戦。

1982年11月12日、マイアミのオレンジ・ボウルで開催された世紀の一戦。
※オレンジ・ボウルとは、アメリカンフットボール「マイアミ・ドルフィンズ」の試合会場として使われ、1996年のオリンピックでサッカー日本代表がブラジルを破った、「マイアミの奇跡」の試合会場。2008年に老朽のため解体、跡地にマーリンズの本拠地「マーリンズパーク」が建設された。
チャンピオン「アーロン・プライヤー」の6度目の防衛戦であり、「アレクシス・アルゲリョ」の史上初4階級制覇を狙った挑戦試合。ファイトマネーは、プライヤー160万ドル、アルゲリョ150万ドル。
前半から若いチャンピオンの積極的な攻めに対してもアルゲリョの技術が勝り、強打を浴びせ、アルゲリョの勝利ムードが漂い始めます。が、6回はプライヤーの相手をよく研究したトリッキーなパンチを当てられる。7回以降は一進一退のエキサイティングな展開。
そして、14回、プライヤーの右ストレートがヒットすると、ラッシュ、凄まじいほどの連打。アルゲリョはガードも出来なくなってしまい、レフェリーストップ。衝撃的な敗戦、アルゲリョは数分間意識不明、ひどいダメージを受けてしまいました。14回1分6秒TKO負けでした。

ブラックボトル事件。

プライヤーに敗れた一戦が後に騒動に発展します。13回終了後のコーナーでセコンドがそれまで使っていたボトルではなく、黒いボトルを使った様子がテレビ中継に映っており、その水に「精神刺激薬」が含まれていたのではないかという疑惑が浮上、チャンピオン側は否定するが疑惑は収まらなかったが、処分されることもなかった。その時のボトルの色から「ブラックボトル事件」として語り継がれています。

プライヤーとの再戦。

敗戦後、1983年2月・4月とノンタイトル戦に勝利、
1983年9月9日、ラスベガス・シーザースパレスで行われた再戦、観客は13,000人。プライヤーは4月に3RKO防衛し8度目の防衛戦、アルゲリョは「私の血の最後の一滴をこの試合に注ぎ込む」と語ってリングに上った。ファイトマネーはプライヤー225万ドル、アルゲリョ175万ドル。
試合は初回からチャンピオンがダウンを奪う。4回にもダウンを奪うが、アルゲリョもやられっぱなしではない、3階級制覇の意地でチャンピオンに楽をさせることはなかったが、10回プライヤーの猛攻に耐えられなかった。プライヤーの立て続けに放つ左右が9発顔面にヒットされガックリと膝をつき10カウントを最後まで聞くことに。悲願の4階級制覇は叶わなかった。

晩年。

引退表明

プライヤー戦2度目の敗戦後に引退を発表するが、1985年に復帰、経済的困窮が理由。1986年に2度目の引退。そして1994年に再度復帰、1995年1月の試合を最後に引退。
引退後には自身の浮気のこと、コカイン中毒者であること、経済的に困窮していること、自殺願望者であることなどを告白。
2004年にはニカラグアの首都マナグマの副市長、市長などに就任し政治活動を行うが、不正で訴えられることも、2009年1月自宅で拳銃自殺し生涯を終える。大変な人生でした。ボクサーにとって引退後の人生もハードな戦いとなるのでしょう。

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アルゲリョありがとう。